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仏教

釈迦の生涯とその教え(1)

今日から「釈迦の生涯とその教え」というタイトルで、仏教の開祖・釈迦はどこで生まれ、どんなことをして、そういうことを教えたのかについて連載していこうと思います。基本的には週一回の連載で、おそらく数十回に及ぶと思います。ご期待いただければ幸いです。

釈迦の生涯(1)

奈良の長谷寺

「釈迦は歴史上の人物なのか?」
仏教の開祖・釈迦が生まれたのはインド北東部のネパールとの国境近くのカピラヴァストゥという首都を中心とする小国である。

この国には釈迦の名の由来になったシャカ族という種族が住んでおり、住民は稲作を中心とする農業を営み、政治的には共和制を敷いて豊かな暮らしを保っていたと考えられている。

釈迦の父は浄飯王(シュッドーダナ)という国王で、その名からも稲作を基盤に置く国家だったことが分かる。
7世紀の前半に西域からインドへの遠大な旅をした玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)はこの地を訪れたことが記録に残っている。

それによると、釈迦族の国は周囲4千里、役175キロメートル(当時の1里は約437メートル)、首都のカピラヴァストゥは周囲14、5里、だいたい6キロメートル四方で、レンガ造りの建物が並ぶ堅固な都市だったらしい。

また、玄奘より200年ほど前に西域からインドへ求法の旅をした法顕三蔵(337~422)という僧は『仏国記(ぶっこくき)』という旅行記の中でカピラヴァストゥはすでに人跡稀な場所で荒れ果てていると記している。

このようにカピラヴァストゥと首都とするこの地域が釈迦の生国であることは早くから知られていたのである。
そして、19世紀の終わりに釈迦誕生の場所とされるルンビニー(現在はネパール領)というところでそのことを裏付ける証拠が発見された。

それは紀元前3世紀にはじめてインド全土を統一したアショーカ王が建てた「アショーカ王柱」と呼ばれる石柱で、仏教に深く帰依した王が仏教の教えなどを短い言葉で刻んだものである。

さらに、1898年には釈迦が実在の人物である決定的な証拠が見つかった。
当時、イギリスの植民地だったインドに駐在していたペッペという人物がカピラヴァストゥ城址から13キロ離れたところでストゥーパ(仏塔、釈迦の遺骨を納めた墳墓)を発見した。

内部には大きな石棺があり、金銀、宝石などの副葬品とともに数個の骨壺が納められていた。
そして、骨壺の一つの表面に「貴い仏陀(釈迦)のこの舎利壺は、妻子姉妹とともに釈迦族の同朋が、信心を込めて寄進する」と刻まれていた。

古い経典には釈迦が亡くなった後、その遺骨は8つの部族に分配され、その中の一つは釈迦族の死者に渡されたと記されている。
この考古学的発見は経典の記述を裏付け釈迦の実在を実証することになったのである。

釈迦の実在、非実在についてかつては問題にされることはなかった。
釈迦は崇拝、信仰の対象であり、その歴史的存否を詮索するなどということは恐れ多いことで、不謹慎であると考えられていたのである。
だから、この問題に触れることはタブーとされてきたのである。

しかし、18世紀にイギリスで産業革命が起こり、科学技術が長足の進歩を遂げた。
その影響を受けて哲学や歴史などの人文科学の分野も発展したのである。

ヨーロッパではキリスト教などの科学的な研究が行われるようになり、1000年以上にわたって続いたキリスト教神学に批判が加えられたのである。

そして、インドを植民地としたイギリス人の中にはインドの歴史や宗教、文化に興味を持ち、その批判的、科学的研究に乗り出す者も現れた。
前述した釈迦のストゥーパを発見したペッペもその一人だったのである。

彼らはサンスクリット語(古代インドの言語)を学びインドの聖典や仏典の研究にも着手した。
フランスやドイツなどのヨーロッパの先進各国も次々にインドの古典や仏典の研究に乗り出し、さらには中央アジアを探検してかつての仏教国の遺跡の発掘などに血道を上げた。

敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)やキジル千仏洞(せんぶつどう)などの石窟寺院(せっくつじいん)の発見もそうした機運の中で行われたのである。

また、このころ北極や南極の極地探検も盛んになり、列強各国は探検隊を組織して極地を目指した。
このように列強各国が中央アジアや極地探検を競ったのは国力を誇示するためでもあり、それは60年代から始まった宇宙船の開発競争と軌を一にするものだった。

「釈迦の生国はどんな国だったのか?」

お地蔵さん

釈迦の生国、すなわち釈迦族の国は先にも述べたように一種の共和制を敷いていた。
共和制とは主権が国民にあり、直接、あるいは間接の選挙などで選ばれた国家元首、または複数の代表者によって行われる政治制度である。

この共和制に少数の特権階級が政治を行う貴族的共和制と、多くの国民が参加する民主的共和制があるが、釈迦族の国は後者に属していたと考えられる。

当時のインドでは広く貴族的共和制が行われていたと考えられ、仏典にも国家的な宝物を隣国に無償で引き渡してしまった国王が国民の怒りを買って王妃や王子とともに着の身着のままで追い出されてしまったという話がある。

また、釈迦の教団(仏教教団)もしばしば会議を招集して重要な問題を決定していたことが経典には記されている。

そして、釈迦在世当時の主権者は釈迦の父の浄飯王だった。
ただ、釈迦族の国の周囲にはコーサラ国やマガダ国という大国があり、釈迦族の国はこれらの国の傘下にあった。

従って浄飯王は王とはいっても単独で専制を行うような強い権限は持っていなかったと考えられる。
それはちょうど徳川幕府の傘下にあった大名のような立場だったと思われる。

ただし、釈迦族は古代からの由緒ある血統を自負して極めて自尊心の強い種族だった。
彼らはヴェーダ聖典にもその名が記されているイクシュヴァーク王(甘藷王〈かんしょおう〉)の末裔と信じており、大国の傘下にありながら強い矜持をもって代々、国を統治していたのである。

当時、インドではヴェーダ聖典に基づくバラモン教が勢力を振るっていた。
もともとバラモン教は今から約4000年前にインダス川流域に進出して厳重のドラビダ人を征服したアーリア人が創始した主教である。

このバラモン教が後にヒンドゥー教に発展し今もインド人の大半はヒンドゥー教を信奉している。
このことから見てもバラモン教の権威が以下の強大なものだったかが分かるだろう。

しかし、アーリア系にもドラビダ系にも属さない釈迦族はバラモン教の権威を認めず独自の宗教を日々の生活や人生の指針としていたと考えられている。
彼らの宗教について詳しいことは分からないが、農耕祭を重んじていたことから見ると、アニミズム(精霊崇拝〈せいれいすうはい〉・川や山、樹木などあらゆるものに精霊が宿るとする原始的な宗教)に基づく比較的素朴な宗教を信じていたと考えられている。

彼らが何人種だったのかは分からないが、当時のインドではかなり得意な少数民族だったようである。
そのことは経典にもしばしば釈迦族が粗野で凶暴で、バラる。

ただ、人種については現代の科学を駆使して遺伝子レベルの調査をすればある程度のことは分かるだろう。
しかし、タイでも日本でも釈迦の真骨は崇拝の対象として神聖視されており、科学のメスを入れることは許されないのが現状である。

釈迦の属した人種が分かれば釈迦の思想の解明に何らかの貢献をするかもしれない。
しかし、そんな貢献よりも宗教的貢献の方が重んじられるということで、確かにそれにも頷くことができる。

また、いっぽうで今述べたような釈迦族の特異性が仏教というユニークな宗教を創り出す原動力になったとも考えられる。
当時、バラモン教をはじめとするインドの諸宗教では個人の主体としての「我(が・アートマン)」が永遠不滅であるという思想が主流だった。

しかし、釈迦はその「我」を真っ向から否定する「無我説(むがせつ)」を主張したのである。
釈迦は世の中のあらゆるものは「縁起(えんぎ)」、すなわち、ある原因に何らかの条件(縁)が加わって、その結果が生じると考えた。

たとえば、稲の種に水や空気、光という条件が加わった結果として、発芽し、やがて稲穂となって豊かな収穫を迎えるのである。
だから、その中のあらゆるものは常に変化し続けているのであり、片時も同じ状態に留まっていない。

このことを「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といい、固定的な「我」が存在しないとする「諸法無我」とともに仏教の屋台骨を支える重要な思想になっている。

仏教に限らず思想や哲学の大半はそれまでに形成されたものを継承し、それに新たな概念を加えたものである。
だから、大半は古い思想を踏襲したもので、オリジナリティーのある新たな思想はほんの僅かにしか過ぎない。

仏教も同様のことが言えて、例えば人が生まれ変わり繰り返すという輪廻転生(りんねてんしょう)の思想も釈迦よりもはるかに昔からインドで広く普及していたものである。

しかし、輪廻転生とともにインドで古くからとなえられていた「我」を否定したことは釈迦の宗教の強い独自性を示すもので、仏教の最大の特徴である。

そして、この「無我」の思想に対しては他の多くの宗教や哲学の各派から激しく批判されたのであり、釈迦も批判に遭うことははじめから分かっていただろう。

にも拘らず釈迦が「無我」を標榜したのは、釈迦が所属した釈迦族の民族的特性によるところが大きいと考えられるのではないだろうか。

高い自尊心を持つ釈迦族のDNAを受け継いだ釈迦は他に追随することを許さず、どんなに苛烈な批判や揶揄にも耐えうる強靭な精神力を持っていたと考えられるのである。

「釈迦はいつ生まれたのか?」

茶釜と炉

インドの歴史の大きな特徴の一つは年代を明記しないということである。
このことがインド史の研究を難しくしているのであり、仏教についてもその事情は同じである。

だから、釈迦の生没年についてもはっきりしたことは分からなかったのであり、古くは「大昔の人」というだけで事足りたのである。
しかし、先にも述べたように19世紀に入ってヨーロッパの学者が仏教の近代的、科学的な研究がはじめられると、釈迦の生没年についても検討がはじめられた。

その中でドイツのジャイナ教学者ヘルマン・ヤコービ(1850~1937)はジャイナ教の経典や仏典を比較研究し、釈迦の没年を西暦紀元前484年と定めた。
伝記の通り、釈迦が80歳で亡くなったとすれば生誕は西暦紀元前564年ということになる。

他の学者たちもおおむね紀元前6世紀ごろということで一致しており、ヤコービの年代論は比較的、穏当なものとされ今も多くの学者がこの説に従っている。

ただし、釈迦の生没年には早くから諸説があるが、近年になって中村元博士がBC463年から383年という説をとなえた。
多説が概ね紀元前6世紀としているところ中村説は100年ほど繰り下がることになるが近頃ではこの説に従う学者もいる。

ところで、日本では西暦1052年に末法の世が到来すると信じられていた。
仏典には釈迦が亡くなってから2000年を経過すると人間の資質が極端に低下して仏教の修行に専念する者も悟りを開く者もいなくなる暗黒の世が訪れると説かれている。

それが1052年だというのだが、この年から2000年を遡ると釈迦の没年は984年ということになり、近代の学者が措定したよりも4、500年、遡ることになる。

釈迦の没年がこのように設定されたのは中国に仏教が伝えられて以来の道教との争いによるものである。
道教の信徒たちは開祖の老子の生没年を釈迦よりも前にしてその権威を高めようとしたのである。

いっぽう、仏教の方でも老子よりも前に釈迦の生没年を設定して、仏教の優越性を主張した。
この争いが200年ほど続くうちに両者の生没年はどんどん繰り上げられ、争いが終息したときには釈迦の没年がBC984年ということになったのである。