瓜生中 公式ブログ
日本人を知り、その歴史と文化を知る。そこに未来が拓ける
仏教

比叡山延暦寺の焼き討ちを専門家がわかりやすく解説!最澄とは?

比叡山延暦寺の歴史。

比叡山延暦寺を開いた伝教大師最澄はどんな人だったのか?

最澄の生涯の目的は何だったのか?

 

織田信長はなぜ比叡山の焼き討ちを決行したのか?

などについてお話します。

比叡山延暦寺の歴史

滋賀県と京都にまたがる比叡山は古くから神聖な山として信仰の対象になって来た。

延暦4年(785)に日本天台宗(にほんてんだいしゅう)の開祖(かいそ)伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう・766~822)が草庵(そうあん・小さなお堂)を建てて修行にはげんだ。

 

三年後の延暦7年(788)には薬師如来像をまつり、お経を納める経蔵(きょうぞう)などを建てて「一乗止観院」という寺院にした。

この一条止観院は最澄が亡くなってから年号をとって「延暦寺」と名付けられた。

最澄は比叡山麓、琵琶湖畔の坂本というところの生まれで、小さいころから比叡山を眺めて育った。

 

最澄の両親は信仰心のあつい人で、地元の日吉大社に参拝して良い子どもを授けてくれるようにと祈願していたという。

両親の期待に応えて最澄はすでに幼少時代から頭角をあらわし、15歳で出家して20歳で正式の僧侶となった。

ときの桓武天皇(かんむてんのう)に信任(しんにん)を受け、30歳のときには「内供奉十禅師」という高僧の位に登った。

 

37歳のときに空海(くうかい)と同じ遣唐使船団(けんとうしせんだん)で唐(中国)に留学した。

唐の天台山で本場の天台宗の教えを学び、多くの経典を携えて翌年、帰国した。

帰国後の最澄は華々しい活躍をし、最澄が創始した天台法華宗(後の天台宗)は宗派として正式に認められた。

 

ここに延暦寺は奈良の興福寺(こうふくじ)や東大寺(とうだいじ)などと同列に並ぶことになったのである。

しかし、最澄の最大の目標は比叡山に大乗戒壇院を創設することだった。

 

戒壇院とは正式の僧侶になるための資格を得る施設で、奈良時代には奈良の東大寺と下野(しもつけ・現在の栃木県)の薬師寺、筑紫(ちくし・現在の福岡県)の3か所に設けられており、これを「天下の三戒壇」と呼んでいた。

しかし、この天下の三戒壇で正式な僧侶の資格を得ることができるのは、少数のエキスパートに限られていた。

そこで、最澄は誰でも一人前の僧侶として修行ができる道を開こうとした。

 

これが大乗戒壇院の構想だったのである。

つまり、最澄は間口を最大限に広げて多くのやる気のある人材を集め、仏教者としての道を歩ませようとしたのだ。

この大乗戒壇院の設立はなかなか朝廷(ちょうてい・国家)から許可がでなかった。

 

許可が下ったのは最澄の没後、初七日の日だったのである。

最澄の没後、比叡山には多くの優秀な人材が集まって来た。

中でも第三代天台座主(天台宗のトップ)の円仁と第五代天台座主の円珍は比叡山の発展に大きな貢献をした。

 

大乗戒壇院が設立されたこともあって多くの修行僧が集まって厳しい修行と勉学に励んだ。

その結果、平安時代の後半には仏教の総合大学のような役割を果たすようになった。

そして、鎌倉時代にいわゆる鎌倉時代新仏教(しんぶっきょう)といわれる民衆主役の新たな宗派の開祖たちは比叡山で修行したのである。

 

最澄の彼岸(ひがん)だった大乗戒壇院は当初の目的を十分に果たしたのだった。

比叡山延暦寺と武家

比叡山には多くの優秀な僧侶が集まったいっぽう、腕に自信のある多くの僧兵(そうへい)も集まった。

平安時代以降、有力な寺院は広大な荘園(しょうえん・貴族や寺院が所有する土地)を所有していた。

荘園では米を中心とする農作物を作り、その上りが貴族や寺院の収入減になったのである。

 

しかし、時代が下ると他人の荘園を横取りしようとする勢力が現れた。

それを防ぐために貴族や寺院は腕に自信のある用心棒を雇ったのである。

そして、貴族に雇われた用心棒はやがて武士となり、寺院に雇われたものは僧兵となった。

 

つまり、武士も僧兵ももとは同じ根っこから生まれていたということができる。

各地の有力な寺院は荘園を護るために多くの僧兵を抱えるようになった。

とくに奈良の興福寺と比叡山にはともに数万にのぼる僧兵が常駐していたが、彼らは大挙して都(みやこ・京都)にやって来ては乱暴狼藉を働いていた。

 

彼ら僧兵は都の人々から「南都北嶺(なんとほくれい)」といって恐れられていた。

「南都」とは奈良のことだが、この場合は興福寺の僧兵をあらわす。「北嶺」は京都の北にそびえる比叡山のことだが、

この場合は比叡山延暦寺の僧兵の代名詞となったのである。

 

この状況は鎌倉時代から室町時代にかけても続き、武家政権(ぶけせいけん)と対立する一大軍事勢力になったのである。

この時代の比叡山は仏教の総合大学でも修行の聖地でもなく、僧兵が常駐する軍事施設と化していた。

比叡山焼き討ちをわかりやすく

とくに応仁の乱(1466~1476)以降は室町幕府の権威は失墜し、武田信玄(たけだしんげん)や上杉謙信(うえすぎけんしん)といった戦国大名(せんごくだいみょう)が権力を握るようになってきた。

そして、室町時代も末の16世紀の後半になると天下統一(てんかとういつ・全国制覇〈ぜんこくせいは〉)に向けて派遣(はけん)を競うようになったのである。

 

そんな状況の中で僧兵は同じ軍事力を持つ戦国大名と対立するようになった。

戦国大名にとってみれば、全国制覇するには寺院の荘園を没収し、日本の国土をすべて手中に収める必要があったのである。

荘園を没収するためには、それを護る僧兵を徹底して排除しなければならない。

 

すでに武田信玄(たけだしんげん)や上杉謙信(上杉謙信)各地の寺院を焼き討ちして僧兵を駆逐していた。

しかし、初期の焼き討ちは単発的なものだった。

これをはじめて組織的に行ったのが織田信長だった。

 

先にも述べたように全国制覇を果たすには寺院勢力を制圧することが最大の課題になった。

そして、その中核となったのが平安時代以来、圧倒的な軍事力を誇った比叡山延暦寺だったのである。

信長は永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで駿河(現在の静岡県)の領主・今川義元を破って以来、急速に勢力を伸ばしてきた。

 

その後、美濃(現在の岐阜県)の斎藤氏を破った。

そのころ、兄の足利義輝が殺されて京都から逃れていた弟の義昭が信長の保護を求めて来た。

これを好機と見た信長は義昭を傀儡(かいらい・操り人形)として第十四代将軍とし、永禄11年(1568)に義昭の後見人として京都に入った。

 

ここに信長の天下統一は限りなく実現に近づいた。

しかし、これに対しては頑強に抵抗する勢力もあった。近江(おうみ・現在の滋賀県)の浅井氏(あざいし)と越前(えちぜん・現在の福井県)の朝倉氏(あさくらし)を中心とする勢力はとくに激しく抵抗した。

比叡山延暦寺は平安時代の末以降、軍事力を背景に朝廷や幕府に対して抵抗を続け、独立を保ってきた。

 

これに対して歴代の権力は比叡山の焼き討ちを試みたが、致命的なダメージを与えるまでに至らなかった。

信長は難攻不落(なんこうふらく)の比叡山の滅亡が天下統一にとって不可欠であった。

元亀2年(1571)、信長は総力を挙げて比叡山を責めた。

 

比叡山側は数万の僧兵を結集して信長の攻撃に備えた。

また、前年の姉川の戦で信長に敗れ、遺恨を持っていた浅井氏と朝倉氏も比叡山側について軍を挙げた。

そして、1571年の9月1日の早朝、信長軍は総攻撃をかけた。

 

比叡山側も激しく抵抗して熾烈な戦いになったが、信長軍の圧倒的な軍事力のもとに戦闘は一日で決着がついた。

延暦寺の根本中道をはじめ、山麓の建物に至るまで悉く焚きつくされた。

そして、僧兵や浅井、朝倉の兵士はもちろんのこと、女性や子ども老人などのほとんどが殺害された。

 

犠牲者は4000人とも4000人ともいわれているが、その詳細は分からない。

 

しかし、非戦闘員も含めて数千人の人が犠牲になったことは間違いない。

最大の懸案だった比叡山焼き討ちを果たした信長は翌日、明智光秀に戦後処理を任せて比叡山を去り、京都に入った。

また、比叡山焼き討ちの年、信長は大阪の石山寺(現在の大阪城)で一向一揆と対決した。

 

これが有名な石山寺合戦(いしやまでらかっせん)で信長は11年間の戦いの末、一向宗(後の浄土宗)を和睦(わぼく)した。

ここに信長は戦国大名と結んだ仏教勢力をすべて抑えて天下統一を果たした。

 

しかし、その2年後には京都の本能寺で明智光秀に殺されることになった。

まとめ

  • 最澄の最大の目的は比叡山に大乗戒壇院を作ることだった。
  • 円仁・円珍という優秀な弟子の活躍で比叡山延暦寺は大いに発展した。
  • 比叡山の僧兵は武家と対立するようになった。
  • 比叡山焼き討ちの目的は比叡山の僧兵が天下統一の妨げとなったからだ。