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人種差別

人種差別

「古くて新しい問題」
アメリカで黒人男性が白人の警察官に8分以上にわたって首を押さえつけられた末に死亡した。
この映像がSNSを通じて拡散し、すぐさま大規模なデモに発展したことはすでにニュースなどで再三にわたって報道されている。

今やデモは世界中に広がり、その勢いは収まる気配がない。
デモの直接の原因は白人警官が黒人を過剰に圧迫して死に至らせたことにあることは確かだ。
そして、それは目の前で見せられた人種差別の現場である。

人種差別の問題は人類が異人種と接触し始めた太古の昔に遡り、現代に至るまで続く古くて新しい問題である。
アメリカでは17世紀以降、アフリカで買われた黒人奴隷が奴隷船に乗せられて役450年の間に1200万人もの黒人奴隷がアメリカに渡ったのである。

奴隷船はすし詰め状態で衛生状態も劣悪で目的地に着く前に亡くなった人も少なくないという。
奴隷は人間と見なされておらず、家畜かそれ以下の存在として扱われていたのである。

新大陸に渡った奴隷は各地の農場や工場などで過酷な労働条件の下で長時間労働を強いられた。
その中で満足な食事を取ることもできずに命を落とした人も相当数いるのである。

奴隷はアメリカ大陸の開拓の最前線で働いてきたのであり、今の超大国を造り上げた最大の功労者ということができる。
にも拘らず差別を受け続け、その結果、貧困生活を強いられてきたのである。

そして、このような黒人奴隷に対する酷使や差別はアメリカばかりではなく、ヨーロッパの先進国でも行われたのである。
良く知られているように南アフリカ共和国ではもっとも深刻な人種差別(アパルトヘイト)が行われ、1948年には法律を制定してアパルトヘイトは合法化された。

また、アメリカではすでに19世紀の末にルイジアナ州で人種差別法が施行され、人種差別が合法的に行われるようになっていた。
これに対する反対運動は早くからあったが、1950年代になると公民権運動が盛んになった。

「公民権」とは公民(市民)として市民生活や政治に参加する行為を自由に行使できる権利のことで、市民権や参政権とほぼ同じ意味である。
公民権運動は長きにわたって有色人種、特に黒人に対する公民権の停止状態を解消して、人間として当然の権利である公民権を与えようというものだった。

事の発端はアメリカ、アラバマ州のモンゴメリーで公営バスの「黒人専用席」に坐っていた黒人女性にバスの運転手が白人に席を変わるように促したことにある。
そして、黒人女性がこれを拒否したことから逮捕されて投獄された末、罰金刑に処せられた。

これに対してマーティン・ルーサー・キング牧師らが抗議の声を上げ、モンゴメリー市民に一年間は公営バスに乗らないよう呼びかけたのである。
この公民権運動には白人を含む多くの人々が参加し、1960年代にかけて全米に広まった。

それでも差別には根強いものがあり、さまざまな形で差別は続いた。
1968年に開催されたメキシコシティオリンピックでは男子200メートル走で金メダルと銅メダルと獲得したアメリカの黒人選手が表彰台で講義のアピールをし、銀メダルを取ったオーストラリアの選手もこれに同調した。

その光景はニュースで世界中に流れ、オリンピック史上類例を見ない政治的デモンストレーションとしてセンセーションを巻き起こした。
しかし、これを問題視したIOC(国際オリンピック委員会)は二人を選手村から追放するとともに出場停止処分となり、オリンピックの舞台から永久追放されたのである。

この事件はIOCの中にも黒人差別が厳然として横たわっていたことを如実に表すものだった。
延期になった東京五輪についてもIOCがかなり無理な要求をしてくるのも白人ではない日本人に対する差別感は否めない。

「差別と平等、正義」
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「人間はポリス的動物である」といった。
「ポリス」とは「都市国家」などと訳されるギリシャ語で市民権を持った市民が治める国家(社会)という意味である。

また、「人間は社会的動物である」ともいう。
つまり、人間は個人として生まれ、個人として死んでいくのであるが、社会の中で他者との関係を無視しては生きていけないということである。

しかし、産業が発達して人間が欲望(利益)を追求していく過程で個々の人間同士の争いが興り、その争いに勝ったものが富を独占して貧富の格差が生じる。
それで社会は極めて不平等な状態になり、さまざまな差別が生まれるのである。

イギリスの哲学者ルソー(1712~78)は『不平等起源論』の中で不平等が横たわり、腐敗堕落した社会、とりわけ18世紀の産業革命以降の社会を厳しく批判している。

彼は未だ階級分化が見られない古代社会では人間は誰もが自由で平等だったはずである。
この状態を彼は「自然状態」と呼び、「自然に帰れ」を合言葉に自然状態の回復を強く主張したのである。

そして、人間は誰でも自由と平等を志向する共通の意思を持っている。
これをルソーは「一般意思」と呼び、人々はこの一般意思に従って信頼できると思われる国家と契約を結んで国家に自由と権利を委ねる。

契約を結んだ国家は一般意思に忠実に従って国民の自由と権利を守らなければならない。
そして、もし国家がそれを守らなければ、国民はそのような国家を排除する権利を持っているというのである。

これはルソーの主著の『社会契約論』に述べられている思想である。
今、アメリカで猛威を振るっているデモはルソーのいう一般意思を守らにトランプ率いる国家に対する強力なノーサインなのである。

また、現代アメリカの政治学者ロールズ(1921~2002)はルソーの『社会契約論』を再評価して不平等と差別を無くす新たな社会の枠組みを考えた。

彼は『正義論』の中でルソーのいう「自然状態」を「原初状態」という言葉で言い直し、やはり人間は原初状態に帰るべきであることを主張した。

そして、原初状態の下でも不平等が残るかもしれない。
しかし、その不平等などは最も不遇な状態に置かれた弱者の境遇を改善するものでなければならないという。

つまり、貧富の格差が存在したとしても、富者は貧者(弱者)を救済しなければならないということである。
ロールズの思想は白人と黒人の格差とそれに基づく差別の解消を求める公民権運動の基本的理念を示すものでもあり、アメリカでは多くの人々に受け入れられたのである。

「大切なのかコミュニケーションと思いやり」
近代の哲学者たちはそれまでの固定的な価値観から脱却してあらゆるものに価値を認めようという立場をとるようになった。
世の中に存在するものは実に多様であって人間も人種や生活習慣、肌の色などの違いがあり、それぞれ異なる価値観を持っている。

そして、それらの多様性を認めるためにはどのような社会を構築したら良いかというのが近代哲学の課題であるということができる。
たとえば、一時代前に音楽といえばクラシックに絶対的な価値が認められており、ロックやポップスなどはレベルの低いものとされていた。

しかし、ロックやポップスなどにもクラシックと同等の価値を認めようというのが近現代、特に現代の考え方である。
ボブディランがノーベル文学賞を受賞したのも、恐らくそういった傾向のあらわれだと思われる。

それでは多様な価値を認め合うためにはどうすれば良いのか。
ドイツの哲学者、社会学者のハーバーマス(1929~)はコミュニケーションが最も重要であるという。

人間は日常言語を使って他者とのコミュニケーションの中に生きている。
このことは最も身近で根源的な事実であるのだが、人は往々にしてその事実を忘れがちである。

つい必要なコミュニケーションを取らずに物事を決めたり、独断的な行動を取ったりしてその結果、他人を蔑ろにする傾向がある。
こういわれると、自分はいつもコミュニケーションは十分に取っていると反発する人も多いだろう。

しかし、言うまでもなくコミュニケーションは双方向で成り立つものである。
一方的に自分の意見だけを述べてもコミュニケーションにはならないのである。

たとえば、子どもが何かを訴えているときに、どうせ子どもの言うことは愚にもつかないことだといって、叱りつけて相手にしない親がいる。
民俗学者の柳田国男はたとえどんな人間でもその言動には必ず理由があるといっている。

まさに、その通りである。
子どもが何かを訴えたとき、それには多くの場合必ず理由があると見るべきである。
それを無視するのは無意識のうちに子どもに対する差別感が働いているのである。

スイスの精神科医で心理学者のユング(1875~1961)は人間の心の奥底には気付くことのできない無意識の心理があるという。
そして、その無意識の心理は本人をはじめだれも気付かないが、あるシチュエーションで必ず有効に働くというのである。

だから、嫌いな人と話すときには思わず顔を曇らせたり、自分よりも弱い立場の人には高圧的に出たりと、後で考えると自分でも理解のできない行動を取るのである。

仏教の開祖・釈迦はだれの話にも熱心に耳を傾け、相手の話を十分に咀嚼した上で自分の意見を述べたという。
そして、相手の話を十分に聞くことによって相手の立場を十分に理解し、たとえ価値観や境遇などが違っていても思いやりを持った対応ができるようになるのである。

そうすることによって多様な価値観を認め合い、差別感も解消すると考えられる。
これを実践するのは難しいが、身近なところで今日からでも実行できることである。