瓜生中 公式ブログ
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日本の国家意識

「島国根性」
最近では死後となりつつあるが、昭和30年代ごろまで「日本は島国だ」という人が多かった。
島国だから料簡が狭い。
これを称して「島国根性」と呼んでいたのである。

日本が島国という観念は幕末に起こったものと考えられる。
日本人は黒船をはじめとする外国船の相次ぐ来航に驚き、改めて世界地図を見たときに島国であることを再認識したのである。

しかし、日本が島国であるという認識を持ったのは勝海舟や榎本武揚といった先進的な知識人に限ってのことだっただろう。
日本にポルトガル人が来航世界地図をもたらしたのは16世紀のことである。

そして、伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』という日本地図を完成したのが江戸時代後半の文政4年(1821)のことである。

そして、これえらの地図についても極々一部の人が知り得ていたのであり、一般庶民はその存在すら知る由もなった。
だから、ほとんどの日本人は世界の中の日本が小さな島国であるという認識はなかったのである。

日本人は古くから20戸か30戸ほどの集落(村)を形成して生活しており、集落同士の交流はほとんどなかったと見られている。
多くの人は村の中で一生を終わり、他の世界をほとんど知ることはなかった。

というよりも余り他の村や世界に興味を抱かなかったというのが現実であろう。
それでもそれぞれの村人たちが概ね幸福な一生を送ることができたのである。

つまり、大半の日本人は村単位の生活をしていたのであり、国家などという概念は持っていなかったのである。
そういうことから見れば多くの日本人の心根は「村人根性」ということがでえきるだろう。

「領土を意識した日本人」
国家という概念を地理的に限定するのは「領土」と「領海」である。
これについても日本人は少なくとも江戸時代の中ごろまでこれといった意識を持つことはなかったのである。

領土、領海という問題に関して再認識したのは、今もロシアとの間で物議を醸している「北方領土」の問題だった。
実はギリヤークと称するロシアの少数民族とアイヌとの間には古くから交流があり、オホーツク海を行き来して物資の交換などを行っていた。

しかし、ロシア側も日本側も樺太(からふと・サハリン)から北海道のオホーツク海沿岸は極東の僻遠の地であり、1808年に間宮林蔵が樺太からロシアに及ぶ地域を踏査するまではほとんど実態が分からず、両国ともにその領土がどちらに属するかについてはほとんど関心がなかったのである。

しかし、18世紀の産業革命を契機に欧米各国は市場を求めてアジアをはじめとする世界各地に進出し始めた。
彼らは最新の蒸気船を駆って世界各地に進出したのであるが、その燃料や水、食料の補給地を日本に求めてきた。

そんな中で1778年にロシア船が北方四島の一島の国後島(国後島)に来航したのをはじめとして、ロシア船の来航が相次いだ。
これに対して幕府もはじめのうちは燃料や食料、水などを供給して融和的な態度を示した。

しかし、知識人の間にはロシアの接近に侵略の意図を察するものも出てきた。
そんな中の一人、紀州藩の藩医、工藤平助は『赤蝦夷風説考』を著してロシア侵略の危機を主張した。

工藤はこの書を時の老中、田沼意次に献上し、外交と海防の重要性を指摘したのである。
これによって幕府や各藩もはじめて領土問題を認識し、国家意識が高まったのである。

「日本人の貧弱な国家観」
今、述べたように日本人の国家意識は他国の接近に触発されたものだった。
そして、日本人にとって国家とははじめから他の国家に対抗するものであるという認識があった。

だから、幕末には沿岸に位置する各藩に砲台を設けて侵略に備え、攘夷論(じょういろん)、すなわち外国人を駆逐することをとなえて国防に専念したのである。

つまり、国家の目的は軍事力を強化することにあり、そのためには産業を発展させて国力を強化する必要があると考えた。
このことは明治維新の「富国強兵(ふこくきょうへい)」「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」という政策に如実にあらわれているのである。

ヨーロッパではすでに紀元前5世紀から4世紀に活躍したギリシャの哲学者プラトン(紀元前472~紀元前347)が『国家』という大著を著し、その中で理想的な国家というものが論じられている。

いっぽう、日本の場合は外国船の渡来といういわば偶発的な出来事から国家意識が高まったのであり、国家とは何か?といった思索やそれに基づくイデオロギーは形成されることはなかったのである。

このことは明治維新で近代国家を目指しながら「王政復古(おうせいふっこ)」と称して大化の改新以降の律令制度によって国家の枠組みを整えようとした支離滅裂な政策にも如実にあらわれているのである。

また、明治維新によって旧来の封建制度は打破され、民主主義の政治が行われるようになったという意見もある。
これは大間違いで維新政府はむしろ封建制度を強化したといっても過言ではなく民主主義とは程遠い政治体制をとったのである。

近代国家の確立を目指した維新政府は一応、近代国家の屋台骨である憲法を制定した。
しかし、その憲法は維新から20年以上経った明治22年(1889)になってようやく公布された。

しかも、第3条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされ、要するに天皇の絶対的な権限はいかなるものにも侵害されることがないと宣言したのである。

この憲法を読んだ中江兆民(なかえちょうみん)は「ただ苦笑するのみ」との感想を漏らしたという。

そして、憲法が成立した翌年にはようやく帝国議会(現在の国会に当たる)が開設された。
要するに近代国家の体裁は整えたものの、実態が整わなかったのである。

「今も続く貧弱な国家観」
昭和20年(1945)に敗戦を迎えた日本は「日本国憲法」を制定して新たな国家の建設に向かった。
「日本国憲法」についてはGHQによる押し付け憲法などという批判もあるが、戦力の不保持と交戦権の破棄を謳ったことは世界に類例を見ないもので平和憲法として評価すべきものである。

それとともに民主主義の精神が遺漏なく盛り込まれたことは近代憲法としての面目を遺憾なく保っている。
しかし、それを運用する側のスタンスが今日に至るまで一貫して落ち着かないのである。

この憲法が公布されたのは昭和21年(1946)の11月3日である。
そして、11月3日は戦前の「天長節」、明治天皇の誕生日である。
つまり、当時の為政者たちは国土の9割を焦土と化した大戦に導いた戦前の体制に対する憧憬の念を断ち切れずにいたのだろう。

この民主憲法の門出を是が非でも天長節に当てたいという思いがあったものと思われる。
これはこの期に及んで現実を見ない思考錯誤も良いところだ。

そして、ここにも国家意識の貧弱さが見えているのである。
つまり、これからどういう国を創り上げていくのか?
民主主義とはどういうものなのか?
国家と国民の関係はどのように構築していくべきなのか?

こういった課題に真正面から取り組んで、真摯に考察するという態度に欠けていたのである。
そして、国民不在の政治が行われることになり、現在に至っている。

特に今の政権になってからはその傾向が顕著に表れており、多くの保安の骨子を閣議決定に委ねるなど議会をないがしろにした動向が目立つ。

これは明治維新の精神的バックボーンとなった吉田松陰の「一君万民論」などの思想が未だに尾を引いているものと考えられる。
「一君万民論」とは一人の君主(天皇)の下に万民(すべての国民)が従えば、万民は平和で幸福な暮らしができるというものである。

専制的な絶対君主制を説いたもので民主主義とは真っ向から対立するもので、思想とも言えない稚拙な考え方である。
今の時代にまさかと思う人もいるだろう。

しかし、右傾した政治家を中心とする人たちの中には吉田松陰に傾倒する人が多く、その政治理論に憧憬の念を抱いている人が多いのである。

そして、このことは取りも直さず政府の中枢にいる極、少数の人間が重要事項を決定して政治を行って行くという姿勢を示すものである。

自民党では二階幹事長が絶大な勢力を誇っているようで、彼の意向で次期、首相が決まるといわれている。
これは明治初年の西園寺公望(さいおんっじきんもつ)らによる元老政治(げんろうせいじ)と余り変わるところがない。

元老は天皇を補佐して内閣総理大臣の選定や国家の重要事項に関与する立場にある。
しかし、元老については憲法や法律にも規定がなくその存在はベールに包まれていた。

これは江戸時代に置かれた「大老(たいろう)」とよく似た立場である。
大老も将軍を補佐して国の重要事項を決める執政の最高責任者である。

大老・井伊直弼(いいなおすけ)はその絶大な権利を利用して朝廷(天皇)にも他の藩にも知らせずに開港を断行した。
その結果、攘夷派の水戸藩氏に暗殺されることになったのである。
これが有名な桜田門外の変である。

さらに元老政治の立場は平安時代の摂関政治(せっかんせいじ)にも似ている。
摂政・関白は天皇を補佐する立場にあったが、実質的には皇位の継承や重要事項の決定を独断で行っていたのである。

「新型コロナウィルスに対する政治の在り方」
そして、このような旧時代の化石や遺跡のような政治が今も行われているのである。
そのことは今回の新型コロナウィルス騒動に際しての政治の在り方に如実にあらわれているということができるだろう。

今の首相は「国民の命を守る」ということを馬鹿の一つ覚えのように言っている。

しかし、近年のスーパー台風のときなどには「命を守る行動をとって下さい」という今まで余り聞かなかった言葉が盛んに聞かれるようになった。

このフレーズには主語がないが、「国民一人一人」が主語であることは間違いないだろう。
そうすると命や財産を守ることは国民一人一人に委ねられるのか?
かなり前から「国家強靭化計画」というスローガンを掲げながら決壊した砂防ダムを一年間も放置して再び土石流が発生して犠牲者が出た。

それも国民一人一人の責任なのか?
しかし、新型コロナウィルスは自己責任ではないことは子どもでも分かる。
もちろん、感染の発生自体は政府の責任でもない。

しかし、拡大防止対策や拡大に伴って発生する困窮者の救済は政府が音頭を取って進めるのが当然である。
もちろん、政府もさまざまな施策を打ち出して感染拡大や困窮者の救済に全力を挙げている。

しかし、重点は感染予防対策よりも経済財政対策に置かれているようである。
そのことは、感染予防を先ず第一に考えるならば厚生労働大臣が担当大臣になるべきところを経済担当大臣が担当していることからも分かる。

これは明らかに経済の復興を最優先していることをあらわしている。
だから感染の予防が後手後手に回って非難される結果になるのではないだろうか。

また、給付金や支援金についても生活困窮者に30万円を給付すると言っていたのが、今度は一律10万円に代わった。
いずれにしてもいつまで続くか分からない感染拡大の渦中にあって安心できる金額ではないことは確かである。

今、最も重要なことは今回の騒動で困窮に陥っている国民を一日も早く救うことである。
国民の生活を安定させることが何よりの経済対策となるのである。

そして、困窮している国民一人一人の生活がある程度、安定すれば精神的にも落ち着きを取り戻すだろう。
60代の男性がコロナウィルスの感染蔓延で仕事を失い収入もなくなった。

緊急事態宣言で休業中のスーパーに忍び込んで1万円相当の食料品を盗んで逮捕されたことを今日のニュースで報じていた。
もちろん、盗みに入るのは言語道断だが、国民はそこまで窮乏しているのである。

どこかの都知事は「ステイホーム」というヨコ文字を並べ立てて外出を自粛するよう金切り声を上げている。
そして、自粛疲れといっている人もいるようだが、まだ、始まったばかりだと豪語している。

しかしながら、多くの国民が疲弊しているのが実態である。
おまけに生活も保障されない中、ストレスはたまる一方である。
せめて当面の生活が保障されれば精神的にも落ち着き、自粛生活にも我慢ができるだろう。

ともかく、経済最優先、国民不在の政治を改めなければ日本は第二次世界大戦に匹敵するような手痛い打撃を受けるだろう。
といっても国会議事堂の塀の中の懲りない面々には通じないかもしれないが……。