小説的自伝
昭和二九年(一九五四)、私は東京目黒で生まれた。敗戦から九年、連合国(GHQ)の信託統治から解放され、我が国が主権を回復してからわずか二年後のことである。
私の幼い頃にはまだ目黒駅のすぐ側にトタン屋根の手作りのような小さな建物が並んでいて魚や野菜などの食料品や雑貨などを売っていた。
私は知らないが戦後の闇市とあまり変わらない光景だったのだろう。
私の生まれた家は目黒駅から山手線に沿って徒歩五、六分、エビスの方へ向かったところ。
深く掘り込まれた線路際で、今は対岸に日の丸自動車の教習所と光村図書がある。
目黒駅からの途中に近隣の人たちが「サンド橋」と呼んでいた山手線に架かる陸橋があった。
そのサンド橋の中央付近には直径20センチぐらいの穴をセメントで塞いだ跡があった。
大人たちは戦争中に焼夷弾が落ちた跡だといっていたが、子どもの私には焼夷弾の意味が分からなかった。
ただ、橋を渡るたびにそこだけ白くなっているのが妙に気になったものである。
当時、目黒駅の前には都電(とでん・路面電車〈ろめんでんしゃ〉)とトロリーバスが走っていた。
トロリーバスとはパンタグラフ付きのバスで、路面電車と架線(がせん)を共有して走る電気自動車で、今もヨーロッパアルプスの麓などで活躍している。
今は都電は早稲田から三ノ輪橋までの都営荒川線だけが残っているが、当時は都内の各所に都電網があった。
目黒駅には都電やトロリーバスの車庫もあり、ここから銀座や日本橋、あるいは中目黒方面に行くことができた。
当時は何につけても今のようにカラフルではなく、私の印象としてはセピア色の世界である。
ただ、唯一、華やかな記憶が今も鮮明に蘇るのはマッキントッシュのキャンディーだか、ビスケットだかのカンである。
たぶん、イギリスからの輸入品だったのだろう。
着飾ってシルクハットをかぶり、ステッキをついた英国紳士が、華やかなドレスに身を包んだレディーと腕を組んで美しい街かどを闊歩する姿が今も脳裏に焼き付いている。
当時は1ドル360円の時代。輸入品はかなり高かった。
誰かが土産にくれたのだろう。
そして、カンだけがいつまでもあって、その中には駄菓子屋、安物のせんべいが入っていた。
それでも、そのカラフルなカンから取り出して食べる駄菓子などはとても美味だったように覚えている。
私の名前の由来
私の姓名は瓜生中という。
あまりない苗字で、名前もかなり珍しい。
命名したのは父親である。
父はいわゆる文学青年で、早稲田大学の政経学部を卒業したが、就職もせずに小説家を目指していた。
私が生まれたころに芥川賞と直木賞の候補に何回かなったが、受賞は逃した。
しかし、そのころ新潮の新人賞を受賞し、いちおう小説家としてデビューした。
とはいうものの仕事はほとんどなく、ときどき文芸誌に出したりする程度だった。
生活は私が生まれてからも元役人だった父親に頼っていた。
それでも晩酌は欠かさず、何かにつけて外に飲みに行っていた。
加えて父は山が好きで、早稲田のスキー部出身だったこともあってスキーも愛好していた。
毎年、冬になるとスキーに行っていた。札幌と日光には友人がおり、いったんどちらかに行くと50日も60日もスキーと酒を楽しんでいた。
とくに日光にはみのチャンというたしか、大学時代の友人がいて、スキーに限らず、出かけて行っていたようだ。
みのチャンは中禅寺湖畔の旅館の次男で、こちらも暇にあかせてスキーやスケート、登山に釣りなどに明け暮れていた。
結婚後も父の生活費は親がかりだったが、ときどき原稿料が入ると旅行に出かけていた。
日光や札幌は知り合いがいる関係で宿泊費はかからなかった。だから、いったん行くと長逗留を決め込んだ。
そんなわけで、私が生まれたときも日光に逗留していた。