瓜生中 公式ブログ
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聖徳太子

聖徳太子の伝説 生まれの秘密

聖徳太子(しょうとくたいし)はすでに生きているうちから伝説化されたと伝えられ、時代が経つとともにさまざまな伝説が語られるようになった。

今回は誕生にまつわる伝説を中心にお話ししようと思う。

観音(かんのん)さまの生まれ変わり

ある年の元日の夜中、聖徳太子(しょうとくたいし)の母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみこ)の夢に仏が現れた。

その仏は「私は救世観音(くせかんのん)である。しばしの間、お前の身体を貸して欲しい」といった。

間人皇女(はしひとのひめみこ)は「私はすでに結婚をして身が穢れております。

その穢れた身体を尊い観音さまにお貸しすることなどとうてい叶いません」といって固く辞退した。

しると、観音は「そんなことは一向に構わないからとにかくお前の身体を貸しなさい」と言い終わるか終わらないうちに、間人皇女の口の中から飛び込んで、対中に入ってしまった。

夜が明けて間人皇女は夫の池辺皇子(いけのべのみこ・後の第三一代・用明天皇〈ようめいてんのう〉)とともに宮中の新年の参賀に参列した。

喉に違和感を感じてしきりに咳ばらいをしている間人皇女を気遣って池辺皇子が声を掛けた。

そこで、間人皇女は夢の話をすると、皇子は直観的に間人皇女が懐妊したことをさとった。

ちなみに、救世観音はしばしば聖徳太子の夢に現れ、さまざまな示唆したと伝えられている。

そして、太子が夢のお告げを得たという法隆寺の夢殿には飛鳥時代(あすかじだい・七世紀)に造られた救世観音像がまつられている。

聖徳太子は丸一年間お腹の中にいた。

間もなく間人皇女の懐妊は確認され、皇族や貴族たちは新たな皇子の誕生を心待ちにしていた。

夏が過ぎ、秋になると出産に供えて産屋(うぶや)が建てられた。

古くは出産は普段生活している家の中ではなく、外に産屋という出産のための建物を建てたのである。

しかし、秋が過ぎ、冬に入って、通常の妊娠期間の十月十日が過ぎても生まれる気配がない。

人々が気を揉んでいるうちに遂に年がくれてしまった。

明けて元日の早朝、間人皇女は池辺皇子(いけべのみこ)の宮殿を歩いて厩(うまや)の戸の前に差し掛かったときに生まれたという。

なんと、お腹の中に丸一年いたのである。

ちなみに、厩の戸の前で生まれたことから厩戸皇子(うまやとのおうじ)を呼ばれたという。

前代未聞の安産だった!?

太子の母の穴穂部間人皇女は数人の侍女(じじょ)を連れて歩いていたが、赤子を生んだことに気が付かずにそのまま歩いて行った。

そして、驚いた侍女たちが慌てて太子を抱えたが、辺りに何とも香しい匂いが漂っていた。

聖徳太子は生まれながらにして全身から芳香を放ち、その香りは終生、消えることがなかったという。

このように常に身体から芳香を放つというのは仏(如来〈にょらい〉)の特徴として仏典に説かれているもので、われわれ凡人にはない偉人の特徴である。

伝説では聖徳太子は生まれ落ちたときから仏と同格に見なされていたのである。

ところで、安産というのは聖徳太子のようなずば抜けた聖人の条件だと考えられていた。

釈迦も母親の右わき腹から生まれたという話は有名である。

これは一体どういうことかといえば、つまりは常人のように細い参道を通らないのである。

仏教の教えによれば、人間は母親の胎内にいるときは前生の記憶を保っている。

しかし、細い参道を通過するときに頭が締め付けられて激痛が走り、その痛みによって前生の記憶をすべてなくしてしまうというのだ。

いっぽう、聖徳太子や釈迦のような聖人は前生で獲得した膨大な知識を温存している。

それを駆使して何が正しいかをシッカリと把握することができるのであり、人々を正しい道に教え導くことができるのだという。

太子が産道を通ったかどうかについて、伝記は伝えていない。

しかし、丸一年もお腹の中にいたにもかかわらず、母親が気づかないうちに生まれたのだから、極めて軽いお産だったことは間違いない。

伝記は安産だったことを強調することで、太子が生まれながらの聖人であり、釈迦と同等の神秘的な能力を持っていたことを強調したのだろう。

『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』という平安時代に著された聖徳太子伝の決定版には、太子が前生の出来事を滔々と語る有名な場面が出て来る。

左手を握ったまま生まれて来た。

聖徳太子は病気もせずにすくすくと育って行ったが、ただ、弓手(ゆんで・弓を持つ手、つまり、左手)が生まれたときから握ったままだった。

両親をはじめ、周囲の人々はそのことを心配していた。

翌年の一月一日に数(かぞ)え年二歳(満一歳)の誕生日を迎えることになった。

そして、その日に奇蹟が起こったのである。

朝日が昇ってきたとき、太子は初日の出のときに太陽に向かってすくっと立ち上がり、合掌(がっしょう)して「南無仏(なむぶつ)」といった。

そのとき、合掌するために左手が開いたのである。

このときの姿を表したものに「南無仏二歳像」という聖徳太子像が各地の寺に納められている。

さらに、左手を開いた瞬間、小豆粒のようなものが手から零れ落ちて床に転がった。

その小豆粒のようなものは仏舎利(ぶっしゃり・釈迦の遺骨)だったという。

つまり、太子は生まれながらにして仏教と深い関りを持っていたというのである。

ちなみに、その仏舎利は今も法隆寺(ほうりゅうじ)の夢殿(ゆめどの)の北側にある舎利殿(しゃりでん)というお堂の中に納められている。

まとめ

  • 観音さまが母親の穴穂部間人皇女の口に飛び込んできた。そして聖徳太子が生まれた。
  • 出産予定日を過ぎても一向に生まれず、人々が気を揉んだ聖徳太子の誕生。
  • 安産は聖人の必須条件!?
  • 左手に仏舎利を握って生まれて来た。