瓜生中 公式ブログ
日本人を知り、その歴史と文化を知る。そこに未来が拓ける
瓜生中自叙伝

瓜生中自叙伝part1

昭和29年5月17日。私は目黒駅の近くで生まれた。
私が生まれたとき、父は日光の中禅寺湖畔の友人の旅館に滞在していたらしい。

父は私が生まれたころに新潮社の新人賞を受賞して、小説家としてデビューしていた。
とはいっても生活できるほどの収入はなく、私が生まれたころは親子三人で父親(私の祖父)に全面的に面倒をみてもらっていた。

収入といえば、たまに入る原稿料ぐらいだった。
それも家計の足しにすることなく、原稿料を持って日光や札幌の知り合いの家に行って長逗留を決め込んでいた。

当時はまだ銀行振り込みがなく、原稿料や印税などは現金書留で送られてきた。
銀行振り込みになったのは昭和40年代に入ってからで、私が中学生、父が50歳ぐらいのときだったと記憶している。

そして、そのころまで父は財布というものを持った頃がなかった。
上の方を三分の一ほど切り落とした現金書留の封筒を財布代わりに使っていたのだ。
父の他にも作家や絵描きで現金書留の封筒を使っている人もいたと思う。

祖母や母はそれを嫌って財布を買ってきて使うように促していた。
しかし、父は絶対に使わなかった。
いま考えてみれば、財布を使わないのは作家や絵描きの自由人としてのステータスだったのかもしれない。

私が生まれたときに原稿料が入ったかどうかは分からない。
しかし、出産が近づいて慌ただしくなった環境から逃げ出したかったのだろう。

中禅寺湖畔の旅館は父の大学の同級生の実家だった。
同級生は次男でその兄が切り盛りしており、同級生氏も兄に厄介になっている身の上だった。

しかし、父も同級生氏も居候の割には仕事もせずに好き放題をしていた。
「類は友を呼ぶ」。本人たちにしてみれば格好のぽん友だったのである。

私が生まれた日、父は中禅寺湖畔を散歩していたらしい。
そこへ宿の番頭さんが息せき切って追いかけてきて、「坊ちゃんがお生まれになりましたよお!」と叫んだという。

私は朝7時半ごろに産声を上げたと聞いている。
当時、地方への電話は直通がなく、一度、交換台を呼び出して、日光あたりでも一時間半か二時間後に交換台から自宅にかかってきてやっと話ができる仕組みになっていた。

だから、父が出生の報告を受けたのはおそらく午前10時ごろのことだったと思われる。
いずれにしても毎晩大酒を飲んでいたに違いないから、そんなに早起きはしなかったろう。

それでも10時前に起きておそらく昨夜の酒の酔い覚ましに湖畔の初夏の風に当たりに行ったのだろう。
番頭さんは「ばんざい!ばんざい!」と言ったと聞いている。

しかし、第一子、しかも男児誕生に父親としてどんな感慨を持ったかは見当がつかない。
もちろん、自分の子どもが生まれたことは大いなる喜びだったに違いない。

しかし、一応は小説家としてデビューはしたものの、定収入も定職もなく、親に厄介になっている身の上である。
おまけに厄介が増えるとなると、手放しで喜んでいる訳にもいかなかったことも事実である。

また、独身時代の父には女出入りが相当あったらしい。
結婚しようと思った女性も何人かあって、両親に引き合わせたというが、母親(私の祖母)が鬼門で、悉くお眼鏡に叶わなかった。

駆け落ちを考えたこともあったらしいが、けっきょくは母親の意に叶った女性(私の母)と不承不承、結婚することになったと誰かから聞かされた。
父としては母との結婚は不本意だったに違いないのである。

いずれにしても父は私の出生を言いようのない複雑な思いで受け止めていたのではないだろうか。