瓜生中 公式ブログ
日本人を知り、その歴史と文化を知る。そこに未来が拓ける

瓜生中プロフィール

昭和二九年(1954)、私は東京目黒に生まれた。父は小説家で、私が生まれたころに新潮社の新人賞をもらって小説家としてデビューし、芥川賞と直木賞の候補に何度かなったが受賞は逃した。

小説家としてデビューはしたものの、仕事はあまり来なかった。

当時は親子三人で父親(私の祖父)に面倒を見てもらっていたのである。

それでも父は定職に就くこともなく、両親の家に親子で居候しながら晩酌は欠かさなかった。

たまに、原稿料が入ると知り合いのいる北海道や日光に行って、向こうで山に登ったりスキーをしたり、夜になると酒を飲んで一月も二月も帰ってこなかった。

私が生まれたときも父は初めての子どもにも拘らず、お産の騒動に巻き込まれるのが嫌で、日光の中禅寺湖畔の旅館に避難していたらしい。

中禅寺湖畔を散歩しているときに私の誕生の知らせを聞いたらしい。

そして、はじめ「泉」と命名しようとしたが、家族や親戚縁者に反対され、次にでてきたのが「湖」で、これも却下。

さらにて中禅寺湖の「禅」。

もちろんこれも却下。

そして、最後に中禅寺湖の「中」を取って名付けたという。

子どものころから初めて会った人からは「三人兄弟の真ん中ですか」などと聞かれた。

また、瓜生という苗字も余りないし、「中」という名前も珍しい。

今も銀行や役所などで姓名が読めずに聞き返されるのが鬱陶しい。

そして、本を出すようになってからは読者の方々はたいていペンネームだと思っているらしい。

ところで、私が生まれたのは終戦の九年後のことで、目黒の駅の近くには未だ戦後混乱期の面影が残っていた。

しかし、昭和30年代に入ると戦後の復興が急ピッチで進み、昭和33(1958)年には東京タワーが竣工し、翌年、皇太子が結婚して都心部で盛大な馬車行列を繰り広げた。

こういったことをきっかけに世界史上、類例を見ない高度成長が始まったのである。

家の二階からは東京タワーが真ん中まで出来上がったところから見え始めた。

当時は余り情報もなく、近所の人たちは日増しに高くなっていく建造物を見て気味悪がっていたらしい。

しかし、それが完成した後には、子ども心にも世の中が一気に明るくなったのを感じた。

商品の包装や街の看板やネオンが一気にカラフルになったのを今も鮮明に覚えている。

そんな時代に少しずつ成長していった私は近くの幼稚園にも通い、小学校も近くの区立の小学校に入った。

私よりも三、四年上がいわゆる団塊の世代で戦後のベビーブームで出生率が毎年200万人を超えていた。

今の少子化の時代には想像もつかない時代だった。

入学当時、一年生から四年生までは午前中、団塊の世代の五年生、六年生は午後から登校して来た。

要するに一日四時間の授業だったのである。

小中学校の時代は高度成長の真っただ中で産業界も教育界もマスプロ時代だった。

学校では恐らく五段階評価で四の上と五の生徒に照準を当て、後は面倒を見ないという方針だったのだろう。

私が小学校四年生のとき1964年に東京オリンピックが開催された。

そのときさまざまな選手が話題になったが、中でもオリンピックのマラソン史上、初の二連覇を果たした

エチオピアのアベベ(故人)が話題の渦中の人となった。

私は息一つ切らさずに淡々と走り、哲学者のような風貌のアベベに魅了された。

以降、自分もオリンピックのマラソンに出たいと思い、暇さえあれば学校や家の近所を走り回った。

その熱は中学、高校と冷めず、陸上競技を続けた。

しかし、御多分に漏れず夢ははかなく消えた。

このころは学生運動が過激さを増しつつあった時代で、私が高校一年の冬(1972年)には浅間山荘事件があった。

このとき私と同じ16歳の高校一年生が山荘に立て籠もり、遂に逮捕されたことは今も鮮明に記憶に残っている。

そうこうしているうちに高校三年生になり、受験期を迎えることになった。

志望校は迷わず早稲田大学に決まっていた。

私の祖父が初期の早稲田大学を卒業し、父も早稲田を出た。

その家系もあって子どものころからわが家には早稲田の卒業生が多く出入りしていた。

それで私にとってはワセダが「大学」の代名詞で他の選択肢はなかったといっても過言ではない。

そして、早稲田大学の文学部に入った。

祖父も父も政経学部の卒業で、祖父はとっくに亡くなっていたが、父としては小説家でありながら、やはり、政経に入ってもらいたかったらしい。

そのころ私はロシア文学に興味を持ち、ツルゲーネフやチエホフ、ドストエフスキーを読み漁っていた。

当時の早稲田の文学部は三年から英文科や仏文科などの専攻に分かれたが、私は当初、ロシア文学を専攻しようと考えていた。

そのころ五木寛之の『青春の門』が大ヒットして、五木がいたロシア文学科も大いに人気があった。

そんなミーハー的な人気に嫌気が差し、最も人気のない東洋哲学専攻に行くことにした。

昔から文学部を出ると就職がないというのが通り相場だった。

ましてや東洋哲学などを専攻した日にはとうていまともな人生は送れない。

大学教授にでもなれば別だが、これも極めて狭き門である。

父には黙っていたが、早々に露見した。

その事実を知った父は何も言わなかったが、後日、「オレが教育のない人間でもないのに、なんであいつは東洋哲学なんか選んだんだ?」と母に不満をぶつけていたらしい。

兎にも角にも東洋哲学科に進んだ私は漠然とではあるが哲学に興味を持ち、仏教やインド哲学をやってみようと思い始めていた。

そして、インド哲学を専攻するならサンスクリット語が必要になるので、サンスクリット語の授業を受講した。

先ず、デーバナーガリーという文字を覚えなければならない。

墓場の塔婆に書かれているニョロニョロとした文字だ。

この文字をマスターするのに二か月ほどかかるのだが、四月には四、五〇人ほどいた受講生は複雑な文字の習得に難儀して日一日と脱落していき、夏休み前には遂に四、五人ほどになっていた。

私は何とか耐えて少しづつ習得し、一年後にはウパニシャッドという古代インドの哲学書も読めるようになった。

四年になると周りは就職活動でざわついてきた。

私は就職する気もなかったが、このころは79年の石油ショック後の不況で、就職氷河期といわれていた。

とくに東洋哲学などを専攻した学生にとっては過酷な時代だった。

指導教授は「インド哲学などを専攻しても、とても大学の教員になる道はないなよ」と他人ごとのようにハッキリと言った。

確かに現実はその通りだったのである。

そのころマスコミ関係に進みたいという親しい友人がいた。

彼が「お前も受けてみたら」といって朝日新聞の願書を持ってきた。

特別興味はなかったが、受け取らないのも悪いから軽く礼を言ってカバンの中に差し入れた。

そして、帰宅した私は無意識のうちに居間の机の上にその願書を置いていた。

すると、それを父親が見つけて私の部屋にやって来た。

父が私の部屋に来ることはめったになかったので、私には何事が起きたのかと少し面食らった。

父は願書を両手で持ち「お前、受けるのか?」といった。

私は「いやー」といって口ごもった。

次の瞬間、「止めとけ!」といって願書を真っ二つに破って部屋から出て行った。

職歴のない父は私にもサラリーマンになって欲しくなかったようだったが、私としても

会社勤めをするつもりもなかったので、とくに父の行動にショックを受けることもなかっ

た。

そんなこんなで、取り敢えずは大学院に行くことにした。

大学院ではインド哲学をより専門的に学ぶようになった。

そのころ父はあるパーティーで大学時代の恩師に会った。

その恩師に「息子さんは何を専攻しているのですか」と聞かれて「インド哲学です」と答え

たところ、「それは良い学問を選ばれましたね」と言われたという。

何が良いのかは分からないが、いずれにしても「哲学」は東西を問わず、不変的な真理を追究し、人間の幸福

を追求する学問だ。

日本でも指折りの国文学者だった父の恩師はそこのところを「良い学問」といったのだろう。

大学院に入学してもモラトリアムの延長ぐらいでとくに目標がなかったが、取り敢えず

インドに留学しようと思った。

教授の伝で東京外語のヒンディー語科を紹介してもらい、そこに週四日ほど通った。

ヒンディー語はインドの公用語で留学にはそれが必要だったのだ。

インドの受け入れ先の大学も決まり、私にしては珍しく着々と準備を進めて行った。

6月の末にはインドの行くつもりで、5月の31日にインド大使館に行って残りの手続きを済ませた。

新宿で一杯やって11時ごろ帰宅した。父は私が物心ついてから一日も晩

酌を欠かさなかったが、そのころは飲んでいるうちに横になり、眠ってしまうのが日課に

なっていた。

その日もいつもの通り居間でいびきをかいていた。

私は今に続く応接間で新聞か何かを呼んでいた。

そのとき、背後で突然、大きな声がしたので振り向いてみると父が起き上がったかと思うと、バタンという響きと共に仰向けに床に倒れた。

台所にいた母が飛んできたが、父はゼイゼイと大きな呼吸を繰り返し、顔色が見る見る赤黒くなっていくのが分かった。

スッカリ狼狽していた母に代わって私が救急車を呼んだ。15分ほどして救急車が来たときにはすでに息がなく、救急隊員の救命措置も徒労に終わった。

インド留学を目前に控えての突然の出来事だった。留学すべきかどうか大いに悩んだ。

しかし、私は一人っ子だったので、母を残して行っていいものやらさすがに決断がつかなかった。

大学の指導教授にも相談したが、答えは出なかった。

逡巡しているうちに時間だけが過ぎ、けっきょく留学は断念することになった。

大学院を終えた後は、とくに職に就くこともなかったが、予備校の講師や編集のアルバイトをやりながら母と二人、何とか過ごしていた。

そうこうするうちに出版社との付き合いもでき、短い原稿を頼まれるようになった。

そして、30歳のときにはじめて本を出した。

タイトルは『死後は無か』。

当時、臨死体験や死後の世界をテーマにした本が一種の流行りで、仏教の視点から死後の世界を書いてみないかということだった。

はじめての本でもあり、時流に乗ったテーマだったことから、私は密かにベストセラーになるのではと期待したが、見事に裏切られた。

しかし、その本を出したお蔭で一応は著者の仲間入りをし、他の出版社からも声が掛かるようになった。

以降、仏教や神道など宗教的ジャンルの本を書くようになった。

書き進めるうちに日本の歴史や日本人の民族性などにも興味を持つようになり、テーマもその方面に広がった。

10年ほど前に書いた『知っておきたい日本人のアイデンティー』(角川ソフィア文庫)という本では日本人のルーツ、そして、その民族性を探った。

また、同じころに出した『知っておきたいわが家の宗教』では日本の宗教の歴史を辿りながら日本人の宗教意識を考えた。

そんなわけで今まで100冊近くの本を上梓したが、65歳になった現在も執筆意欲や向学心は衰えるどころかますます意気盛んになっている。

昨年初めに酒を止めた。

20代から(実は10代後半から)毎日欠かさず飲んできたが、近年は酒量が極端に増え、身体

的にも不安を感じるようになっていた。

そこで、思い切って止めたのだが、幸いなことに何の苦痛もなくアッサリと止めることができた。

酒を止めるといろいろと良いことがあった。

先ず、健康を回復した。

最近では週に2、3回ジムに通い、月に2、3回は奥多摩など近郊の山歩きをしている。

また、断酒する前は一日、5、6時間は行きつけの飲み屋で常連と世間話をして過ごし、家に帰るとまた飲んでいた。

つまり、起きている間の半分近くを飲酒に費やしていた。

断酒以降はこの飲酒時間が読書時間に代わった。

ここ一年半ほどの間に100冊余り読んだ。

デカルトの『哲学原理』、プラトンの『国家』や『饗宴』『ソクラテスの弁明』、津田左右吉の『文学に現れたる我国民思想の研究』(全八巻)、チエホフの『サハリン島』(全二巻)など、多様な書籍を呼んでいる。

これらは学生のときに読んだものも多い。

学生のときにはよく理解できず、あるいはあまり共感できないものもあった。

しかし、今読んでみると新たな発見もたくさんある。

とくにプラトンが『饗宴』の中でソクラテスの口を借りて、人は知的欲求を満たすこと

によって真の幸せにいたることができ、死は恐れるに足りないものになる、という趣旨のことを言わしめている。

これには大いに共感を覚えた。

今年、65歳になる私は男性の平均寿命の81歳まで生きたとして、後、16年。

とくに意識はしていないが死の方に近づいていることは紛れもない事実である。

今まで65年の人生で恋愛もし、結婚して子供もできた。

酒は人の5生分、10生分も飲んだだろうか。

その酒もあっさりと止めた今の私に残っているのは知的欲求である。

残された16年のあいだ(あるいはもっと長生きをするかもしれないが)、1年に100冊読んだとして1600冊。

内容を厳選して真に精神の糧となる書物を読めば、おそらく私なりに知的欲求が満たされて、ソクラテスのいうように掛け値なしに幸福な人生を送ることができるのではないだろうか。

また、旅もしたいと思う。

デカルトは20歳を過ぎたころには満願の書を読破し、多くの学問に精通したという。

そして、本からの学びに一端、区切りをつけて今度は思索の旅に出た。

プラトンなど多くの哲学者も旅に出、ブッダ(釈迦)は人生の過半を旅に過ごした。

日本では親鸞や日蓮、一遍などの高僧、西行や芭蕉などの文学者が旅を続けた。

旅の空で思索を続け、感性を磨いた彼らは独自の宗教的教理や優れた文学作品を生み出した。

旅にはその土地土地の自然と他人、そして、文化に出遭う非日常が満載されている。

そして、本から得た知識や旅から得た経験によって自らの人生を省みて内証を深めるのが旅の最大の効用である。

若いころから旅行や山行にはよく出かけた。

もちろん、それは楽しい思い出として今も私の心に残っている。そして、仏教や日本思想などにまつわる仕事をするようになってからは、仕事に関連した神社仏閣への取材旅行などが多くなった。

もちろん、そのお蔭で極めて多くの神社仏閣を訪ねることができ、多くの発見や新たな感慨も得て、私の人生を豊かにしてくれた。

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経歴

1954年 東京生まれ

1977年 早稲田大学第一文学部入学

1981年 早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒業

1981年 早稲田大学文学部文学研究科入学

1984年 早稲田大学文学部文学研究科修士課程修了(専攻・インド哲学)

修士論文は「シャンカラの宇宙論についての一考察」

大学院修了後、予備校や塾講師、編集などの仕事をしながら、仏教や神道などについての原稿も執筆。

1991年、毎日新聞社より『死後は無か』を初出版。小著は仏教や当時、話題になっていた臨死体験などの資料に基づいて死後の世界の存否について考察したもの。

以降、執筆活動に入り、仏教、日本思想、日本の歴史、神話などの多様な分野の研究に基づいて日本人の民族性、宗教心などを世に問うてきた。

『知識ゼロからの神社と祭』(2003年、幻冬舎)、『知っておきたい日本の神話』『知っておきたい日本人のアイデンティー』『知っておきたい仏像の見方』(以上、2011年KADOKAWAソフィア文庫)など、現在までに刊行されている書籍は100冊を超える。

2000年からNHK文化センター、2002年から中日新聞(2017年修了)、NHK学園、2010年から早稲田エクステンションセンターなどで、仏教や神道、仏像、神話などをテーマに講義を行っている。

2019年9月、ブログを公開。仏教や神道、神話、日本の歴史、日本民族などについて幅広い視点から記事を発信している。

 

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