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正倉院展の見どころや歴史、宝物を詳しく解説!七條刺納樹皮色袈裟も!

「正倉院(しょうそういん)」は租税や宝物を納める倉で、奈良時代ごろから官庁や大寺に設けられたが、現存しているのは東大寺(とうだいじ)の正倉院だけである。

 

校倉造(あぜくらづくり)という三角形の木材を組み上げた高床式(たかゆかしき)の倉には約九〇〇〇点に及ぶ貴重な宝物が納められている。

 

正倉院展は昭和二七年(一九五二)から開催され、毎年、四〇~五〇点の貴重な宝物が特別展示される。

意味

正倉院の「正倉」とは官庁が租税として徴収した米などを納める倉庫で、大化(たいか)の改新以降、各地に設けられた。

そして、奈良時代になると法隆寺(ほうりゅうじ)や興福寺(こうふくじ)、東大寺などの大寺にも正倉が設けられ、寺の宝物や重要な書類などを保管するようになった。

 

また、東大寺の正倉院のように周囲を塀で囲んだ大掛かりな正倉(しょうそう)も現れた。

そして、塀で囲まれた立派な建物のことを「院(いん)」といい、大寺の正倉はたいてい塀で囲まれていたために正倉院と呼ばれた。

 

先に述べたように、かつて正倉院は各地の大寺にあり、諸国に創建された国分寺(こくぶんじ)にも設置された。

 

時代の経過とともに各地の正倉院は衰退したが、東大寺だけに残り、東大寺の正倉院が固有名詞のようになったのである。

東大寺の正倉院の起源

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)八年(七五六)、聖武天皇(しょうむてんのう)は崩御したが、その七七日(しちしちにち・四十九日〈しじゅうくにち〉)に后(きさき)の光明皇后(こうみょうこうごう)は亡き天皇の遺品(いひん)を東大寺に寄付した。

これを納めたのが東大寺の正倉院の起源である。

 

遺品はその後、五回にわたって天皇遺愛の品が約六五〇点、薬物が六〇点に及んだ。

これらの品々については『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』などという文書に記録されている。

 

聖武天皇遺愛の品は天平勝宝四年(七五二)の東大寺の大仏開眼法要のときにインドやペルシャ、中国など各国から招かれた来賓が土産に持ってきたものも多い。

 

ペルシャ製のガラスの杯やベッコウの工芸品などの宝物は賓客として招かれた外国人がもたらしたものである。

校倉造りの建物

正倉院の建物は校倉造(あぜくらづくり)と小学生のころから聞いている人も多いのではないだろうか。

校倉造とは断面が三角形の木材をログハウスのように積み上げて横壁としたもので、奈良時代から平安時代初期の官庁や寺院の倉に用いられた建築様式である。

 

壁の断面は鋸の歯のようになっており、湿気が多いときは三角形の横木が膨張して隙間がまったくなくなって内部に湿気が入るのを防ぐ。

いっぽう、乾燥したときには横木が収縮して木の間に少し隙間ができて外気を呼び込むことができて湿度の調節ができた。

 

このように校倉造の湿度調整機能を聞いたことがある方も少なくないだろう。

しかし、最近では屋根の重みで壁には隙間ができなかったと考えられ、この湿度調節機能は否定されている。ただ、現在の校倉造は乾燥が進み、隙間ができている。

 

正倉院の宝物が千二百年もの間、良好な状態を保つことができたのは宝物ごとに何重にも布に包んで箱に納められていたこと。

そして、何よりも薬師寺や大安寺などが奈良時代以降、衰退して光背を極めたのに対して、東大寺がその勢いを保って来たからである。

 

北から正倉は北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分されており、中倉は板壁で覆われており、校倉造ではない。

また、奈良時代の古文書には正倉のことを「双倉(ならびくら)」としるしている。

 

このことから、当初は北倉と南倉だけがあってその間は床も壁もない吹き抜けになっていたといいう説もあった。

しかし、木材の年輪測定など詳細な調査の結果、創建当初から現在の形式だったことが分かっている。

 

なお、昭和二七年(一九五二)には正倉院内に東宝庫(ひがしほうこ)が、昭和三七年には西宝庫(にしほうこ)が鉄筋コンクリート造で創建され、宝物はすべて両宝庫に移された。

正倉院展

正倉院は一般には非公開だが、外構のみ原則として月曜日から金曜日まで公開され、建物を間近に見ることができる。

室町時代には足利義満(あしかがよしみつ)や義政(よしまさ)、織田信長(おだのぶなが)が所蔵の伽羅(きゃら・高価な香木)を刻みとって持ち帰ったことが伝えられている。

 

しかし、彼らが正倉の中に入ったかどうかは不明で、信長については暴君との批判を恐れて中には入らず香木の一部だけを手に入れたという。

明治になると宮内省の管理になったが、明治八年(一八七五)から一三年(一八八〇)にかけて毎年開催された奈良博覧会のときに、東大寺大仏殿の回廊(かいろう)で宝物の一部が一般にも公開された。

 

その後、明治二二年(一八八九)から昭和一五年(一九四〇)の間、曝涼(ばくりょう・虫干し)に合わせて関係者に正倉の内部が公開された。

 

そして、第二次大戦直後の昭和二一年(一九四六)、「正倉院御物特別拝観(しょうそういんぎょぶつとくべつはいかん」と銘打って、はじめて奈良国立博物館で開催され、昭和二七年からは「正倉院展」の名で開かれた。

その後は数回の非開催はあったがほぼ毎年開催され、今年は七一回目に当たる。

 

なお、今年は新天皇の即位に合わせて「正倉院―皇室がまもりえた美」と銘打って東京国立博物館でも特別展が開催される。

宝物

聖武天皇遺愛の品、東大寺の儀式に使われた品や古文書類、東大寺大仏殿の開眼法要(かいげんほうよう)の関連の品、武具や楽器、薬など多種多様な宝物があり、その数は九〇〇〇点に上る。

 

これらの宝物は早くから厳重に管理されており、平安時代には「勅封(ちょくふう)」という制度で守られてきた。

「勅封」とは天皇が署名した紙で鍵を包むことで、天皇の許可を得てしかるべき役人の立ち合いが無ければ鍵を開けることができなかった。

 

それでも長い歳月の間には持ち出されて行方不明になった宝物も少なくない。

先にも触れた『国家珍宝帳』が宝物の目録であるが、そこに掲載された宝物が現存している訳ではない。

 

とくに、刀剣や武具類(ぶぐるい)に関してはすでの奈良時代の戦のときに大量に持ち出されて返却されないままになっている。

また、楽器類など実用に用いられるものに関しては必要に応じて持ち出されて戻ってきていないものもある。

 

正倉院展で毎回、ポスターや図録の表紙を飾り、人気を集めているのはペルシャ製のガラスの杯や螺鈿細工(らでんざいく)の施された琵琶(びわ)などである。

しかし、毎回、出展される古文書類にも貴重な資料で興味深いものが多い。

ただ、短い説明ではその内容や用途が分からないものが多いのが残念である。

 

たとえば、過去に何回か出展された戸籍台帳(こせきだいちょう)や納税台帳などは奈良時代の社会状況を知る上に貴重な資料だ。

 

どこの村に何戸の家があって、何人ぐらいの住民が住んでいたのか。

また、当時、租税として納めた米などの穀物や麻布などの特産品などの記録もあり、当時の人々の生活の様子を知るうえで貴重な資料である。

 

次に今回出展されている宝物の中から何点かをご紹介しておこう。

赤漆文木御厨子(あかうるしもんかんぼくのおんずし)

第三九代・天武天皇(てんむてんのう)の時代に作成され、東大寺を創建した聖武天皇の娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)まで六代の天皇に受け継がれてきた。

厨子はふつう仏像を治めるための調度品で、現代の仏壇の原型ともいわれている。

しかし、この厨子には各天皇の真筆の文書や中国の書聖(しょせい・書の大家)として知られる王義之(おうぎし)の書などが納められていたという。

 

常に歴代天皇の身近に置かれていたが、孝謙天皇が父の供養にために東大寺に寄進(きしん)した。

納御礼履(のうのごらいり)

聖武天皇が東大寺大仏開眼法要のときに履いたと考えられる履(くつ)。

クツはギリシャ、ローマあたりで使用されるようになり、シルクロードを通じて中国にもたらされた。

中国で完成した様式が日本にも伝えられたと考えられている。

 

東大寺の大仏開眼法要(七五二年)にはアジア諸国から多くの来賓が参列した東アジア最大のイベントだった。

 

法要に際しては最高の礼装を整えたが、そのときに履いたのがこのクツだと考えられている。

紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)

「撥鏤(ばちる)」とは予め紋様などの浮彫を施した象牙に紅や藍(あい)などの色を塗り、その染料を薄く削って下地の図柄を浮き上がらせる技法である。

この紅牙撥鏤尺はモノサキで、一寸ごとにメモリが打ってある。

 

古くは建物を建てるときに先ず、建設地の面積や地勢によって基準となる寸法を決めてモノサシを作った。

だから、一寸や一尺という長さは建物ごとに異なっていた。

 

いずれにしても、モノサシは建物の建築のはじまりを示す重要なもので、各地の古い寺にもモノサシが残っているところが多い。

ただ、この「紅牙撥鏤尺」は実際に使われたものではなく、建築者としての聖武天皇の権威を示すものとして作られたものである。

 

ちなみに、この紅牙撥鏤尺は赤漆文木御厨子に納めらていた。

七条刺納樹皮色袈裟(しちじょうしのじゅひしょくのけさ)

『国家珍宝帳』には九枚の袈裟が挙げられているが、その筆頭がこの袈裟である。

インド以来、袈裟は墓場や廃屋などに捨てられたぼろきれを洗い、何枚も縫い合わせるのが正式な制作方法だった。

 

だから、今でも今朝はふつうの反物の寸法よりも幅の狭い布を五枚、七枚と縫い合わせて作られる。

五枚の布を用いれば五条袈裟、七枚であれば七条袈裟と呼ばれる。

 

また「刺納(しのう)」は刺し縫いという縫製技法で、刺繍を施したものの事である。

「樹皮色(じゅひいろ)」は文字通り樹皮のような色合いということである。

 

この袈裟は聖武天皇遺愛の品で、法要のときに実際に着用したと考えられている。

紺玉帯残欠(こんぎょくのおびさんけつ)

紺玉(こんぎょく)とは濃い青色の瑠璃(るり)のこと。

革製の帯に瑠璃を散りばめて装飾したものがこの帯である。

 

帯というよりも現代のベルトのようなもので、やはり、ギリシャやローマの習俗を伝えている。

残欠とは一部が残っているという意味。

ただ、一部は欠損しているが、かなり完成品に近い形で残っている。

この帯も聖武天皇が正装したときに用いられたと考えられている。

 

以上、今回の正倉院展に出展されているごく一部を紹介したが、さらに詳細を知りたい方は、今回の奈良国立博物館の正倉院展、および、東京国立博物館で開催される正倉院―皇室がまもりえた美―の出展内容については各博物館のホームページなどを参照していただきたい。

まとめ

  • 正倉院は租税や宝物を納める倉のことで、古くは官庁や大寺に設けられた。
  • 平安時代以降、他の正倉はなくなったが、法隆寺の正倉院だけが現在まで残った。
  • 正倉院の建物は校倉造という建築様式は弥生時代から穀倉庫などに用いられたものである。
  • 「正倉院展」の名が使われるようになったのは戦後のことで、今年で七一回目になる。
  • 正倉院の宝物。
  • 聖武天皇遺愛の品をはじめ、奈良時代以前からの宝物は約九〇〇〇点に及ぶ。