瓜生中 公式ブログ
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日本の年間行事

大嘗祭とは天皇の即位のための儀式である

大嘗祭とは

今も毎年一一月二三日には各地の神社などで新嘗祭(にいなめさい)が執り行われる。

新嘗祭はその年の米の収穫に感謝して、神々に新穀(しんこく・新米)を捧げ、人々もそれを食する収穫祭、感謝祭である。

七世紀の皇極天皇(きょうごくてんのう・642~645年在位)の時代、毎年の新嘗祭(にいなめさい)をとくに宮中(きゅうちゅう)では「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼んでいた。

 

後に新任の天皇が即位(そくい)してからはじめて行われる新嘗祭を大嘗祭と呼ぶようになり、毎年の新嘗祭と区別するようになった。

そして、天武天皇(てんむてんのう・673~686)のときから今行われているような即位儀礼(そくいぎれい)としての大嘗祭は「践祚(せんそ)大嘗祭」といって通常の新嘗祭と区別されるようになった。

 

ただ、天武天皇はこの践祚大嘗祭を在位中に複数回、実施しており、必ずしも天皇一代限りの儀式ではなかったことも分かっている。

天武天皇のときにはじめて践祚大嘗祭が行われ、しかも複数回に及んだのはなぜだろうか。

 

それは前代の天智天皇(てんじてんのう)のときに大化(たいか)の改新(かいしん)が敢行され、はじめて律令(りつりょう・法律)に裏付けられた強大な権力を持った天皇が誕生した。

とりわけ、天武天皇(てんむてんのう)は天智天皇(てんちてんのう)の息子の大友皇子(おおとものおうじ・後の弘文天皇〈こうぶんてんのう〉)を壬申(じんしん)の乱で平定して皇位を継承した。

 

そのような経緯で皇位に就いた天武天皇には敵も多く、自らの権威とカリスマ性を高めることが必要だったのである。

つまり、天武天皇は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の皇孫(こうそん)が日本国を治めるということを天智天皇以上にアピールする必要があったのである。

 

そんな中で天武天皇は皇祖の天照大御神がまつられている伊勢神宮(いせじんぐう)にも度々参拝し、天皇が天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫であることを内外にアピールしたのである。

『古事記(こじき)』『日本書紀(にほんしょき)』の編纂(へんさん)を命じたのも天武天皇で、その編纂の目的は天照大御神(あまてらすおおみかみ)から続く皇族の血脈をハッキリと示すためだった。

 

そして、天皇が神であるという観念が登場したのも、伊勢神宮(いせじんぐう)の社殿(しゃでん)がほぼ現在の規模と様式を完成したのも天武天皇(てんむてんのう)の時代であるといわれている。

だから、即位後の新嘗祭(大嘗祭)は特に重視されて、「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」と名付けられ、しかも、何度もそれを執り行って天皇の地位を不動のものにする意図があったのである。

 

これは後に唱えられるようになった説だが、大嘗祭は天孫降臨の再現であるともいわれている。

遠い昔、天照大御神の孫に当たる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大御神の命を受けて日向(ひゅうが・宮崎県)の高千穂峰(たかちほのみね)に降り立った。

 

これが天孫降臨(てんそんこうりん)である。

そして、瓊瓊杵尊から四代目の孫が初代現人神(あらひとがみ)・神武天皇(じんむてんのう)である。

以降、歴代天皇が降臨してきて日本の国土を治めるのだという。

 

つまり、歴代天皇は大嘗祭を通じて神となり、新たにわれわれの住む世界に降臨して来るというのである。

だから、大嘗祭は天皇にとっても国民にとっても極めて重要な意味を持つ儀式だというのである。

 

ただし、これは国学的見地から江戸時代ごろに唱えられたものである。

その起源は収穫に対する感謝祭で、その意義は一般に行われている新嘗祭と変わるところはない。

 

ただ、大化の改新以降、天皇家が強大な権力を握ったことにより、天皇家の新嘗祭だけに特別な意義が与えられた。

つまり、特別な意義を与えて特別な格式を備える必要があったものと考えられる。

整備された大嘗祭

時代が進むと律令制度の中で大嘗祭の意義や式次第が徐々に整備されていった。

平安時代に編纂された法令書である『延喜式(えんぎしき)』の中で「大祀(だいし)」、つまり大きな祭といえば大嘗祭だけを指す。

 

大嘗祭は奈良時代から鎌倉時代にかけて歴代天皇の代替わりに行われ、とりわけ、律令制の復興に力を入れた桓武天皇(かんむてんのう)や嵯峨天皇(さがてんのう)のときには盛大に執り行われた。

現在の大嘗祭の式次第などはこのころに整備されたものを参考に行われている。

 

しかし、室町中期の応仁(おうにん)の乱(らん)以降は世情が混乱したことから大嘗祭は行われなくなった。

二二一年間、中断した後、江戸時代の貞享(じょうきょう)四年(一六八七)、東山天皇(ひがしやまてんのう)の時代に復活した。

 

この時代は五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代で綱吉は儒教を重んじ、彼が出した武家諸法度(ぶけしょはっと・天和令〈てんなれい〉)の第一条に「文武忠孝(ぶんぶちゅうこう)を励まし、礼儀を正すべき事」としている。

つまり、伝統的な礼儀(儀礼)を重んじることによって儒教(じゅきょう)精神をひろめ、それによって国家を納めようとしたのである。

 

江戸時代になってから家康以来、朝廷の勢力を抑えるために禁裏御料(きんりごりょう・皇室の予算)などは極端に減らされた。

綱吉(つなよし)はこのような幕府の朝廷に対する緊縮政策を改めたのである。

 

また、大嘗祭復活に際して僧尼の宮中への出入りを禁じ、宮中内の御黒戸(おくろど)といわれる仏間に安置されている位牌(いはい)を撤去すべきであるという議論が持ち上がった。

大嘗祭などの皇室儀礼は古くは概ね純神道式で行われていたと考えられている。

 

しかし、仏教が盛んになった奈良時代ごろからは朝廷の儀式にも仏教的要素が多く混入して神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進んだ。

いっぽう、江戸時代の中ごろになると国学者などの間から、神道の純粋性を求める声が高まった。

そこで、重要な即位儀礼としての大嘗祭から仏教的要素を除去しようという意見が表面化したのである。

 

大嘗祭の復活を契機として起こったこの論争は、その後、賛否に分かれて続けられ、けっきょく、明治維新の神仏分離(しんぶつぶんり)の一因にもなった。

今年の大嘗祭11月22日の夕刻から23日にかけて行われる。

江戸時代までは夕暮れが一日のはじまりで、翌日の朝に終わると考えられていた。

 

伊勢神宮の式年遷宮をはじめ、出雲大社の種々の祭など多くの祭が深夜にかけてクライマックスを迎えるのはこのためだ。

大嘗祭もこれにならって夕刻から翌朝にかけて行われるのである。